2003年12月 3日
敬老の日を含めての3連休。
打ち合わせを兼ねての秋田行きである。
しかし、秋田は近いね(笑)と思ってしまうペースはいかがなものか。
弊社の主力人員輸送手段であるところの12万円号。
本名・ユーノス500は、かのジウジアーロをして、「量産メーカーがこんな(美しいデザインの)車を作ったら、我々の仕事が無くなってしまう」と言わしめた程の車である。
しかも、バブル期の車であるが故に、妥協無くコスト削減という言葉とは無縁である。(おかげでマツダは潰れかけたが)
いい車である。
しかし、不当に弊社内では扱われている。
しょうがないよ、12万円だもん。
それはさておき。
12万円号が約24万円車検を受けているので、今回の秋田行きは、ディーラー貸出の代車「デミオ」号での出撃とあいなった。
「いくらでも乗ってくださいよー」
という営業マンの言葉を真に受けての秋田出撃である。
同郷であるところのS女史も同行。
簡単にインプレッションを書くと。
中が広い。意外とハンドリングは悪くない(あまり高くないグレードだろうけど)。エンジンはちょっとガサツ。
アテンザはいい音出してるんだけどね。トヨタの静かなりゃいいんでしょというアプローチとの違いは評価できるが。
所詮、エントリーカーなので、作りはプアだけど、デザインは悪くない。
こんな安っぽくても12万円号よりは、はるかに安全であろう。エアバックもABSもついてるし、衝突安全性も10年前とは大違いだろうから。
秋田までの道のりは、もう飽きたので、なるべく同じルートを使わないように関越回りで向かう。
とはいえ、コスト削減の折り下道を多めで。
S女史を迎えに行き、途中でダイソーによったりなんだりしつつ、パタパタと進む。
震災用(?)に購入したハーモニカを吹きつつ、一般道から、関越へ。
長岡でICを降り、フレンドへ。
ここは「イタリアン」なる地麺を食べさせるローカルファーストフード店である。
→このあたりを見てみてね。
ようするに焼きそばの上にミートソースがかかっている代物である。
と、だけ書くと不味そうだけど、なかなかどうして、侮れないのだ。
個人的にはみかづきの酸味の強さよりは、フレンドのまろやかさを取りたいので、フレンドのがお気に入りである。
ローカルファーストフード店なのにドライブスルーというところもイイ。
ここでは、常軌を逸した髪形のお客さんがいて、笑いを堪えるのが大変だった。
日本海の夕焼けを見ながら・・・というのはタッチの差でかなわず、とっぷりと暮れた国道7号をひた走り、秋田に到着。
翌日。
うだうだと過ごしつつ、正しい秋田の休日ライフを満喫すべく、御所野のイオンへ。
そして、正しい秋田にやってきた人ライフを満喫すべく、秋田まるごと市場へ。
さらに翌日。
打ち合わせなどをする前に敬老の日なので、寄り道をしつつ、うちのお墓参りに行っとく。
うちの現実家は手形山であるが、その前は金砂町の市営住宅であった。
壊される前に写真を撮っておきたくて、ちょっと寄ってみる。
中島橋を渡り、金砂町方面へ。
中島橋界隈は、子供の頃によく遊んだ一帯である。
青い建物が東中。山腹にある丸い建物が鉱山博物館。そしてその真上が実家であるが、当時はこれらのとこに縁ができるとは思っても見なかった。
金砂町市営住宅はまだ残っていた。
当時は、3棟並んで立っていたのだが、今は2棟だけとなっていたが、あまり当時と変わらない。
わずかばかりのスペースに遊園地があったのだが、ブランコなどは撤去されている。
あれに足を挟んだりして、子供は成長するものなのに、最近の子供は甘やかされすぎている、と思う。
最寄りの商店、「長沼商店」は、飲み物やちょっとしたお菓子を低学年の頃に買っていた。
車の中からちらっと、のぞくと当時と同じおばあさんが!!
思わず「ギャッ」と声をあげるが、当時65才、現在85才と思えばそんなに不思議でも無いか(笑)
「三国商店」は秋田工業高校の正門に近く、うちから2番目の商店である。
よく出前を取ったりした店でもある。
あのふにゃふにゃのラーメンをまた食べてみたいような、食べなくてもいいような・・・
その隣に「秋工前茶屋」がある。
店は三国商店の方が奇麗だが、店員のおっさんの愛想の関係で、茶屋の方を子供の頃よく訪れた。
いまなら、DQNと呼ばれるような兄ちゃん達が授業中でもいたはずだが、意外と気さくだった記憶がある。
ここのおでんはうまかった。
当時、コンビニおでんなどは無かったので、子供がおでんを買える場所は少なかったのだ。
小学生の頃の通学ルートをトレースして、保戸野小学校方面へ。
このへんはチャリで爆走していた一帯でもある。
金砂神社は、秋田に引っ越してきた当時、住んだあたり。
市営住宅に引っ越してからもしばしば遊んだが、結局、早々にもっと行動範囲が広がったのでそんなに長い期間ではなかった。
お祭りいまでもやってるのかな?
カタ屋さんとかくるのかな?
保戸野小学校は、建て替えられている。
通っていた当時も鉄筋コンクリートの校舎だったが、秋田市内で最初に鉄筋コンクリートに立て替えられただけあって、老朽化が激しかったのだろう。
市の中心部でもあるから、生徒が減少している。
旧校舎建設の頃はマンモス校だったらしい。
保戸野小学校からの分家は八橋小学校、泉小学校とあって、さらに今では八橋小学校からの分家もあるので、スゴイ話である。
当時と同じなのは、サボってほとんど入らなかったプールと、門くらいである。
自分らの代が卒業記念として残していったのが、国旗掲揚塔。
位置は立て替えの時に変えられていたが、今でも残っていた。
はっきりいって移設するくらいなら、新設したほうが安かったと思う。
「未来に生きる」とかかれたプレートもそのままで、ちょっとジーンとする。
保戸野小学校から表通りへ出ると、消防署がある。
保戸野出張所である。
自分が小学校に入った頃は確か新築前だったか・・・。
新築、そしてボンネットの消防車からボンネット無しへ。
行き帰り良く眺めたものである。
子供会のイベントで、この建物内で手品を観た記憶がある。いま思うと来てた手品師はマギー一門だったかと思われる。
そんな、秋田消防署保戸野出張所も、近々統合されるとのこと。
市営バスも無くなるし、寂しい限りだ。
そして、もっとも寂しいのが、なにより実家のお墓があるお寺である。
都市計画道路の関係で移転が決まっている。
ここは、通称・寺町というのだが、旧藩士が住んでいたお屋敷街から旭川を渡って突き当たりがうちのお寺である。
構造的には、この寺町のメインのお寺のように思える。
道幅と同じ門から考えると、事実上前の道は門前街なわけで、その道路の拡張に伴って移転とは因果な話である。
他のお寺もいくぶん削られたり、一部移転したりはあるが、このお寺は丸々移転である。
その名は「歓喜寺」
脇のお寺の移転の時など、かなりの数の人骨が出てきたらしい。
土葬の頃からのお寺が集まっているエリアなのだ。
「歓喜寺」に至ってはどれだけ出てくるのだろう。そこまでして道路を通したいのか・・・とも思うが、外環はよ作れ、圏央道はよ作れ派の自分としては、諦めるしかない。
お寺やお墓はどこもこんな感じと思っていたので、人のお寺の事は何も知らない。
細君の実家のお寺やお墓を見て風習の違いに驚いた。
一応、説明しよう。
まず、うちの場合、お墓が外にある。
こちらに納骨される。
正面がメインのお墓。うちの実家の先祖代々のお墓だ。
右が戒名碑で、左がサブのお墓である。
これは、自分が小学生の頃に改装してこうなったのだが、それまでは、メインのお墓に複数のサブのお墓がある構造で境界もあいまいに点在していたのを、回りのお墓の改装と合わせて、ビシッとまとめたものである。
サブのお墓とは、なんぞや、というと、うちの実家はかつて旅館をやっていたのである。
人買いを使ってさらってきたわけじゃないんだろうけど、当時の小姓さんっていうのかな、とにかく丁稚の人みたいな人や仲居さんやらよくわからん人たちのお墓も一緒に作ってあげてたらしい。
やっぱ、どっかの農村から買ってきたのかなー(笑)?
そんな、数々の墓石の中から一番マシな状態で残っていたものを残して、他は墓石も埋めてしまったんだそうだ。
だから、もしかしたら、序列的におかしい人のが残ってるかもしれないけど、そりゃ知らん。
しかし、うちのお墓の構造を考えると、移転が大変そうである。
本堂に入ると、位牌壇とやらが並んでいる。
これは、ググって名称を調べたので、正式になんというのかわからない。
こちらは位牌が置いてあるだけ?なのかな?
お墓参りの手順としては、外の墓にいって清掃、お供え。
その後中に入って、清掃、お供え。
坊さん呼び出して、中でお経、そのあと、外でもお経という手順である。
今回は、お経無し。
そういうのは、うちの親がやってくれてるはず。
なんだかんだと、回って、大町に戻って、打ち合わせ。
大町はちょうどお祭りをやっていた。
秋田のローカル芸人「まるさん」がいるっ!!
ちょっと前に会社で、「まるさんは生きているのかねー」なんて話していたところだった。
「まるさん」は喋りも達者でまるまるとした体でニコニコとハイテンションに進行してくれる。
東北各県でやっていたラジオ番組「我が町バンザイ」の秋田担当でもあった。
これ、面白いことに番組名は一緒だけど、各県ごとに別々に放送していて、年に一回程度だけ、各県のパーソナリティが集まってスペシャルをやるってな感じの番組だった。
で、この「まるさん」のすごいところは、ひとたびマイクのスイッチを切り仕事を終えると、それまでのテンション、満面の笑みは一瞬にして消え去り不機嫌そうな柄の悪いデブに豹変するところである。
子供の頃に初めて見たときはショックを受けたものであるが、今日の場合はそれが楽しみ。
しばし観察をしていると、例の豹変が発動。
細君も大受けである。
S女史と落ちあい、再び、東京への帰路につく。
今度は国道46号回りで盛岡経由。
秋田道の全通前はよく通ったルートであるが、ひさしぶり。
盛岡で、ネットで調べた冷麺屋「もりしげ」に寄ると、ちょうど店内では星野監督の胴上げシーンが生中継されていた。
Posted by waka at 2003年12月 3日 13:11
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プリウスマニア掲示板での返信ありがとうございました。
そしてwaka@八王子のHPも見ていたのですが、なんと秋田の文字が!実は私は青森県八戸市出身で今、山形県山形市在住の大学生なんです。秋田もレンタカーで角館、横手、象潟、に行ったことがあります。まだ県北は未開拓ですけど、今年中にでも秋田県北にいきたいと思っています。
そして、デミオも乗ってみたいと思ってたんですが、waka@八王子さんは代車で乗ったのですね。いいなあ
おおーっ。
山形もよく行きますよー。
「ヤマザワ」がお気に入りなので、13号線を通って、下道で移動するときはよく寄ってます。
デミオなかなか良かったですよー。
新中島橋は昭和44年の竣工になります。その前はどんな橋だったんでしょうね。
私はよく知りませんが、興味があります。
近くの秋田工業高校もまだ旧校舎で木造だったはずです。
当時のこと知っている人も少なくなってきたようですね。
金砂町あたりは空き地が増えてきました。
「長沼商店」「三国商店」「秋工前茶屋」は、名物の店ですから、続いて欲しいです。
でも、子どもが減ってきて経営は大変でしょう。